西暦2005年
ポートピアランドの建設工事の土方仕事するためにサンフランシスコから集団就職で来日していた前田十男。
新開地のストリップ劇場で本番まな板ショーを行った時に偶然近くの質屋で手に入れたマルチトラック録音機で適当な多重録音をして遊んでいた。(当時42歳)
オリジナル曲が10曲くらいになっていた時に、同じ建設現場で働いてるいたシャブ中に
「これはこれで良く出来てる感じやし、このまま埋もれてしまうのもなんだか勿体無いと思うわぁ。せっかくやし、なんとかしてみたら?」
と言われて、当時黎明期だったgoo簡単ホームページにその楽曲をアップしてみた。
その時に窓の外からとても美味そうなサラミたっぷりのピザに乗った小さなお爺さんがやって来て
「その楽曲演奏はバンド形式で行いなさ〜い。バンド名はザ・マンガンズと名乗りなさ〜い」
とだけ言い残し反対側の窓からピザに乗って出て行った。
とにかく無性に腹が減っていたジュウオは、一刻も早くピザが食べたくなったので、簡単ホームページのタイトルを【ザ・マンガンズの楽曲】とバンド名義にして急いで宅配ピザピザハットに電話をした。
パイナップルの乗っているハワイアンピザのLサイズを頼んでみたものの、すぐにお腹一杯になってしまい、トッピングのパイナップルだけ食べて残りは捨てた。
すると不思議とホームページのアクセス数が増え初めて、その反響にびっくりしたのだ。
元来調子に乗りやすいジュウオは
「もう土方は辞めて、実際にバンドを組んだら売れるかも?」
と思い、大阪の楽器店にメンバー募集のチラシを貼りに行ったのだ。
そこからザ・マンガンズの歴史はスタートした。
最初に来たメンバーは
ポン引き
プッシャー
傷痍軍人
トルコ風呂店員
ヒモ
シャブ中
というなかなかの強者揃いだ。
当たり前のように、メンバーの失踪、逮捕、保険金詐欺などが続き
その都度メンバー募集サイトで補充を繰り返していた。
2012何頃のある日、スタジオまで競争馬に乗って来たドラマーが居た。
伊賀忍者の末裔と名乗るスラッシュメタル愛好家のドラマーは【秘技バラードにツーバスの術!】を使う凄腕だった。
腰まで伸ばした頭髪を切ったら離婚させられるから何が有っても切ることはない!と言うおのろけも気に入った。
それが東健次郎である。
365日中368日酔っ払っているベーシストが加入したのはそれから2年後やった。
当時江坂のサンプロという居酒屋を併設していた奇特なリハスタで特訓していた我々は、スタジオ練習3時間の前後3時間もベロンベロンになるまで飲んでいた。合計9時間は飲むという所業!
その特異なバンドスタイルにばっちりマッチしたのが竹内浩一(おやっさん)であった。
本業がヤクの売人のおやっさんは、難波変態倶楽部(別名、ベースの会)の副会長を勤め上げる自他共に認めるドMだという。
東健次郎の下のケアはおやっさんの薬が欠かせないとの噂もある。が、ここでは割愛する。
新型コロナウイルスの蔓延に伴いギタリストを無くした我々は、以前から仲良くしていた京都のファッションリーダー【ドンユウジ】にサポートをお願いした。
当時ドンユウジは、職場のフォークリフトで鳩を轢き殺すという事故からのトラウマで、ツルピカハゲまるになっていたのだ。
その心の隙間に入り込む作戦を使い、気のいいドンユウジはサポートを快く引き受けてくれた。
これ幸いと、グイグイアプローチしてそのまま拉致監禁に近い形でメンバーに引き込んでしまう。
その後セカンドアルバムの録音を行う。
偶然別のバンドで鍵盤を弾いてい河内の給食のおばちゃんだった【いくちゃん】を言葉巧みに騙して、数曲だけでサポートして欲しい。と調子のいいことを言ってちゃっかり予定より多くの曲で演奏をさせてしまう。
そして得意技のなし崩し作戦で、大量に酒を飲ませてベロンベロンにしてズルズルとメンバーにしてしまおうと企てるのだが、、、
彼女はメンバーの誰よりも酒豪で、中身は河内のオッサンの完全形と知ることになるのだが、時すでに遅し。
誰よりも男前なステージングでザ・マンガンズの裏バンと化しているのは周知の事実である。
そんなこんなの経緯を経て、ある意味ザ・マンガンズの完全体として今日も活動を続けているのである!
どうやら現在ザ・マンガンズ結成から19年ということになる。
現メンバーではは3年ちょい。
2025は結成20年のメモリアルイヤーになるのだが
これといって何も特別な事をする予定は無い。
我々はいつものように粛々とブッキングライブと自主企画ロックンロールミーティングを続けて行くのだ!
ロケンロー!
2024年吉日
ザ・マンガンズ 前田十男